2020年1月11日土曜日

鵜戸神宮-宮崎県日南市

宮崎県日南海岸にある、運玉投げやシャンシャン馬で有名な神社な鵜戸神宮です。
平成29年10月に国の名勝に指定されました!
(2017年9月下旬に行った時の記事です)



宮崎県日南市大字宮浦3232番地


鵜戸神宮は・・・

「鵜戸さん」と愛称され、国定公園日南海岸の風光明媚な所、日南市鵜戸の日向灘に面した、自然の神秘な洞窟の中に、朱塗りの色あざやかにご鎮座されている。

この洞窟は、主祭神の産殿の址と伝えられる霊地で、およそ1千平方メートル(約三百坪)ほどの広さがある。

強烈な太陽のもと、おりなす奇岩怪礁、紺碧の海、波状岩に砕ける白波と、自然の景勝につつまれたロードパーク日南海岸の中心地に当神宮はお鎮りになっている。



由来は・・・

山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に赴かれ、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結ばれた。

山幸彦が海宮から帰られた後、身重になられていた豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地に参られた。

霊窟に急いで産殿を造られていたが、鵜の羽で屋根を葺終わらないうちに御子(御祭神)はご誕生になった。

故に、御名を「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」と申すらしい。

境内の案内は下のとおりです(鵜戸神宮HPより拝借)
1.吾平山陵
御祭神のお墓で速日峯(はやひのみね)頂上にある。文献の中には日本書紀に「葬日向吾平山上陵」とある。宮内庁御陵墓参考地となっているのは鹿児島県吾平町にも吾平山陵があり、明治28年に鵜戸神宮の陵墓は伝説地と指定された。2月2日にお祭り「吾平山上御陵祭」がある。

2.御本殿
棟造・県指定有形文化財主祭神の産殿の址とされる洞窟内に建つ朱塗りの色鮮やかな本殿。お参りはここで行い、作法は二拝二拍手一拝。御主祭神の外に五柱の大神様をお祀りしている。延暦元年の再興以来、何回となく修改築されており、近いところでは昭和43年に行い(257年ぶり)、平成9年にも改修を行っている。


3.お乳岩
 母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産・育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。

4.お乳水
 ご主祭神は、豊玉姫がくっつけて行かれたお乳岩から滴り落ちる水でつくった飴を母乳がわりに、お育ちになったといわれている。現在のおちちあめもお乳岩から滴るお乳水でつくられている。

5.霊石亀石
 ご本殿下の磯に、母君豊玉姫が出産の為に乗って来られたと言われる霊石亀石(れいせきかめいし・桝形岩)がある。この亀石の背中に桝形の窪みがあり、この窪みに男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うといわれている。




6.八丁坂
 一番古い石段参道で、吹毛井の港から神宮の山門まで長さ約800m(八丁)の石段が続いている。 438段上ると別当墓地があり、下りは377段ある。この石段は「坊園の尼」さんが延暦年中(782〜806年)に近くの海岸の磯石を頭に担いで築いたといわれている。

7.別当墓地
 八丁坂の最高所に位置する。別当とは、境内に仁王護国寺があった頃のお坊さんの中で一番偉い人の役職名である。 第一世の「光喜坊快久」の墓地を始め、あまたのお坊さんが眠っている。昭和56年に桓武天皇延暦中興千二百年を記念して墓地の整備が行われた。
8.社務所
一般的に言うと事務所のことである。以前の社務所は茅葺きの何とも趣のある建物であったが昭和45年に焼失した。
9.儀式殿
以前の社務所あとにある。結婚式や直会(祭りは晴であり、そこから日常に戻るため、神様に供えた物を参加者が頂戴する行事。)会場として使用している。
※天皇陛下が行幸された際の御休憩所もある。
10.斎館
装束や神饌(神様に供える食べ物や御神酒)がおいてある建物。
11.波切神社
1月28日に例祭があり、講社(特に漁師の方々が多い)のお参りがある。
12.磨崖仏
磨崖仏(まがいぶつ)は日南市指定文化財。
鵜戸山仁王護国寺の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に山肌の岩に彫刻されたものである。
当時は鵜戸山守護仏として極彩色に施され祀られていた。
現在も新駐車場入口から見学でき、信者のお参りもある。
13.千鳥橋
参道にある朱塗りの橋で、眼前に広がる日向灘と奇岩は見応えがあり、ここで記念写真を撮る参拝客も多い。
14.玉橋
参道にある朱塗りの橋で、ここを渡るといよいよご本殿が見えてくる。
15.神門
はじめにくぐる朱塗りの色鮮やかな門。

16.楼門
神門の次にくぐる門。

17.鵜戸千畳敷奇岩
鵜戸神宮の鎮座する鵜戸先の南面にある。今から約1000万年前から100万年前にかけて堆積した地層(新第三系宮崎層郡)で、砂岩と泥岩が交互に堆積してできている。この地層は10度から20度傾いていて日向灘に面しており、長い年月にわたって日向灘の激しい波浪や風雨にさらされ、浸食されて現在の姿となった。こうしてできた波状岩は別名「鬼の洗濯岩」や「鬼の洗濯板」と呼ばれ、とりわけ鵜戸千畳敷奇岩はその広さから県指定の文化財に指定された。

18.山窟前の嚴岩
鵜戸山窟の前の海中に種々の形状の岩石が屹立している。人口は全く加えていないが、その形状の奇なる、その色彩の厳たる、国内にも海外にもその類を見ない神秘の霊境である。
風の強い日には太平洋の怒濤が岩を噛み、激しい波しぶきが上がる。


19.朝日の風景
鵜戸神宮は、雄大な太平洋の断崖の洞窟の中という風光明媚な地に位置する。太陽がまっすぐに登るくに・・・「ひむかのくに・みやざき」にふさわしく水平線から朝日が登る光景は美しく神秘的。


20.鵜戸ヘゴ北限自生地
ヘゴは、湿度の高い林の中を好む木生シダである。高さは4mにも達するものがあり、2メートルもある葉が八方に広がる。
鵜戸神宮北側の杉が混在する自然林のくぼ地にある「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」は、その生態が珍しく国の指定天然記念物となった。










 私自体も30年ぶりに行きましたが、何も変わりない風景ですがやはり人が多いです。
昔を何が違うかというと外国人観光客が半数以上って事でしょうか(^^;)

あと、鵜戸神宮に気を取られて私も見落としていたのですがすぐ近くに、鵜戸埼灯台があります。
こちらも是非訪れたほうがいいですね。
埼と付いてるからには行かねばならぬで自分の宿題とします(笑)



この地域の天気は、「ウエザーニュース日南市」を参考にしてください。

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2020年1月10日金曜日

青島-宮崎県宮崎市

鬼の洗濯岩でも有名な宮崎県宮崎市にある青島です
(2017年9月下旬に行った時の記事です)

青島亜熱帯性植物群落が国の特別天然記念物に指定されています。

青島は奇岩「鬼の洗濯板」が島を囲む、周囲1.5kmほどの小さな島です。

鬼の洗濯岩も国の天然記念物に指定されています。



青島神社に行くのに手前で駐車しなければいけませんが
私達が訪れた日は、あいにくの雨って豪雨でした(^^;)

駐車するとこを確認もせず行って、現地でキョロキョロしてたら、
青島藤井商店の方が、「雨降って大変だろうから、軒があるとこ停めていいよ」と声かけてくれました。

なので、ここで紹介させてもらいます。


ハコバンがとまってる先に入り口があります。

↓ここです

ちょっと分かりにくいかもですが店舗の裏に駐車場があります。

さてさて本題の青島神社ですね

青島海水浴場とは「弥生橋」でつながっています。


天気がよければ絶景なんでしょうね(^^;)
私らが行った時は横殴りの雨&満潮で洗濯岩がぜんっぜん見えませんでした


島をぐるっと回って弥生橋の反対側に神社の入り口があります。

島内にはビロウジュをはじめ、亜熱帯性植物も多く茂っています。




種子植物の自生および栽培品併せて74科174種2亜種5品種計209種、これにシダ植物17種を加えた226種が島内にあります。

ビロウ林の成因としては二説あるらしいです。

南方から黒潮に乗って漂着した種子か生木(せいぼく)が活着して繁茂したとする漂着帰化植物説と、 第三紀以前に広く繁茂していた高温に適する植物が、気候の変化したあと温暖なこの島の海岸部に残存したとする遺存説で、後者が有力との声が多い。


今度は晴れたときに来たいですねリベンジや~!

この地域の天気は、「ウエザーニュース宮崎市」を参考にしてください。

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2020年1月8日水曜日

朝日山森林公園-香川県三豊市

香川県三豊市にある朝日山森林公園、朝日山は通称「あせび山」と呼ばれ、高瀬町の東方・麻盆地の中心に位置する標高238.2m の山。
(2017年4月上旬に行った時の記事です)




県道23号から朝日山に登りますが、急勾配と道が狭いので気をつけたほうがいいかも、
ましてここは桜がすごく多くあり綺麗で、シーズンになると、凄い車&観光客が多いので余計に神経を使います(^^;)
駐車場は無料です!
例年の見ごろは3月下旬から4月上旬。4月の上旬には桜祭りもあるみたいですね!
昨年は2019年4月7日(日)10:00~15:00となってたみたいです。


 朝日山は朝日(旭光)を一番最初に受ける山であることから、この名前で呼ばれているらしいです。
 「朝日山森林公園」はその山頂部にある公園で、町の人々の労働奉仕で造り上げた個性豊かな森林公園です。

 麓から登山もできるが、車やバイクでの移動も可能。



 展望台には城の天守閣を模した建物があり、三豊市と、阿讃の山並み、遠くには瀬戸内海まで気持ちよく見渡せます。

四季折々の草木の彩りも美しく、風光明媚な山だ。春にはソメイヨシノをはじめ、約2000 本の桜の名所として賑わいを見せます。

 ぜひ、その目で360 度の視界を満喫してほしいものです。

長いすべり台など、いくつかの遊具も設置されているおり、子どもたちの元気な声も飛び交ってました。


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2020年1月7日火曜日

赤穂城跡-兵庫県赤穂市


兵庫県赤穂市にある国の史跡である赤穂城跡
(2017年8月に行った時の記事です)



アクセスはものすごくいいです!
無料駐車場完備ですトイレもありました!
もちろん無料



開園時間
 本丸、二之丸庭園以外は無休
 本丸、二之丸庭園は9:00~16:30(入園は16:00まで)
 ※二之丸庭園は平成28年12月13日より部分公開を開始いたしました。

休園日
 本丸、二之丸庭園以外は無休
 本丸、二之丸庭園は年末年始 12月28日~1月4日

 赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。
 江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。
 国の史跡に指定され、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されている。
 別名・加里屋城、大鷹城。
 日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されている。


赤穂城とは・・・


江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。

 赤穂城の前身となる城郭は、池田長政によって慶長5年(1600年)に築城されたとされる「掻上城」である。「掻上城」は絵図や発掘調査から、現在の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている。

 その後も池田家の家臣で赤穂郡代となった垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱、池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる。

 正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。

 これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。

 縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側に三之丸が二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。

 銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。

 縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。

 またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。
 これにより二の丸門周辺の手直しがなされたとされ、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。

 最終的に寛文元年(1661年)に赤穂城は完成し、着手から13年かかって完成している。
 完成時には10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んだ。
 本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。

 明治時代前期に城内の建物は破却、土地の大部分が民間へ払い下げられたため、一部の石垣と堀のみを残し、田畑化・宅地化した。本丸には小学校などが設置されるなど、公共施設の用地として利用された。

 1928年(昭和3年)から1981年(昭和56年)の間には、兵庫県立赤穂高校(旧制赤穂中学)の敷地となり、西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた。

 1955年(昭和30年)には古写真を参考に大手隅櫓、大手門(高麗門)が建築されている。

 1971年(昭和46年)には赤穂城跡が国史跡に指定され、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二之丸庭園の復元整備が進められている。

 現在、本丸には、本丸門や本丸御殿の間取り、発掘調査でみつかった庭園などが復元整備され、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。

 赤穂城は5万石の石高の割には規模の大きい城である。
 5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難のためか造営されず、天守台のみが今日に残っている。

 赤穂城は海岸に近く標高が低いため、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。
 そのため、千種川の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水していた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ、日本三大上水道の一つに数えられている。

 赤穂城は浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』[7]、森氏でも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして家老の森主税(可彝)を暗殺した『文久赤穂事件』が起きている。
【wikiより引用】








見所等は公式Webサイトを参考にしてください。

国史跡赤穂城跡(兵庫県赤穂市) 公式Webサイト





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2020年1月5日日曜日

幻の特攻グライダー神龍・回天展示、羽立峠-香川県さぬき市


香川県さぬき市にある、羽立峠に幻の特攻グライダー神龍と回天を展示してる場所が、香川県さぬき市にあります。(2016年7月中旬に行った時の記事です)



地図でも分かるとおり国道11号線から少し入ったところにありますが・・・
注意していかないと通り過ぎてしまいます(^^;)
ちょっと分かりにくいかな

この写真は高松市から徳島市方面に向いて走ってる時にとりましたが、ほんと見落とします。


展示場といっても青空の下です。
舗装もないので、気をつけて!


手前に見えるのが、「幻のグラインダー神龍」・奥の黒い潜水艦みたいなのが「回天」です
回天は、徳山港や、茨城県等々いろんなところで見えるとおもいますが「神龍」はおそらくココだけ。




ちなみにこの展示物、個人の寄付によって作られた物です。

三好昌廣さんは旧日本海軍兵で、恐らく90歳過ぎ。
三好さんは、太平洋戦争末期、戦局の悪化に伴い旧日本海軍が極秘裏に開発・製造した特攻兵器「神龍(じんりゅう)」と「回天」、その実物大レプリカを製作し、戦争の悲惨さなどを訴えています。
 



香川師範学校在学中の昭和20年5月に学徒出陣で神奈川県横須賀市の海軍施設に配属され、兵器製造などに携わったそうです。



龍神とは・・・


本土決戦の際に敵の上陸作戦を阻止するための兵器として開発された「神龍」は、海軍が戦争末期に開発した特攻用木製グライダーだそうです。
 航空用エンジンや鉄材が極度に不足した戦争末期において開発されましたが、3基の火薬ロケットを装備しているため数十秒の飛行も可能でした。

実戦への投入に向けて、特別攻撃隊のパイロットらはグライダーを使用して訓練を行っていましたが、実際に投入される前に終戦を迎えたため、戦争における戦果はありませんでした。


1944年(昭和19年)11月、海軍艦政本部から逓信省航空局航空試験所に対して必要条件が提示され、12月に計画が纏められた。機体の設計は航空試験所の榊原茂樹技師を主務者として行われ、製造は美津野グライダー製作所が行なった。

 (美津野グライダー製作所は現在のスポーツメーカーのミズノである。)

 1945年(昭和20年)5月末に試作機1機が完成、7月中旬に茨城県石岡町の大日本滑空工業専門学校にてロケットエンジンを搭載しない状態で曳航発航による飛行試験を行い、その際に機体に異常振動が発生したことを受け、垂直尾翼の増積が行われた。

 霞ヶ浦飛行場にてエンジンを搭載した状態で無人での飛行試験を行ったが、この時はエンジン停止後に墜落しているそうです。

 その後、海軍は神龍の量産開始を命じ、本土決戦に備え特別攻撃隊のパイロットの訓練が通常のグライダーを用いて行われていたが、実戦投入前に終戦の日をむかえたため、特に戦果はない。

 8月15日の終戦までに製造されたのは試作機4機で、終戦後の8月20日に完成した5号機を含めても計5機のみだった。


 飛行試験時のテストパイロットだった楢林寿一飛行士は「操縦が難しい神龍は特攻(体当たり)には不適」といった旨の報告を試験責任者に対して行っており、さらに神龍に燃焼時間30秒のロケットエンジン6基とロケット弾を装備して攻撃機化することを提案した。また、生存したパイロットは、後世、「当たったとしても戦車だから5、6人くらいしか巻きぞえにできないし、上空から向かって行っても戦車に撃ち落とされていただろうから、お国のためとはいえ、納得がいかない。なぜこのような乏しい作戦を立てるのか」といった旨のコメントを残している。



神龍 諸元(一型)

 全長:7.6 m
 全幅:7.0 m
 全高:1.8 m
 自重:220 kg(ロケットエンジン非搭載時)
 最大離陸重量:600 kg(ロケットエンジン非搭載時)
 エンジン:固体燃料ロケットエンジン × 3(合計推力:400 kg)
 最大速度:300 km/h
 巡航速度:110 km/h
 上昇限度:400 m
 航続距離:4 km
 武装:100 kg爆弾 × 1(内蔵)
 乗員:1名








 ちなみにコチラが回天です。

 回転は外見だけでなく、中も正確に作られているみたいです。

 下にハッチがあり入れるようになってます。

 潜水艦に取り付けられて運ばれた回天は、発進すると乗った人間が目視で敵の軍艦の位置を確認しながら操縦し、体当たりをします。

 しかし、体当たりしなくても2時間半後には自爆する仕組みになっており、脱出装置もありません。

上のパネルも今は剥離して見えない。読めないそうです。




 回天のうしろには悲母観音地蔵が建造されてます。
 この悲母観音地蔵は同2007年、戦没者を偲んで山崎さん含む7人の大川中学校同級生で建てたものらしいです。

私の実の祖父も戦死しました。顔も写真で見ただけですが・・・
自然と手を合わせてしまってました。

 先人の方が頑張っていただけたおかげで今の日本がある。
今の私たちが楽しく過ごせてるんだと、こういう歴史をしるといつも痛感させられます。



貴重な展示なのに、野ざらしってのはもったいない気がします。
現に、神龍の尾翼も風でもげ落ちているようです。
こういう物は後世に残して伝えていかなければならない物なのに・・・もったいないです。

この記事を書くのにいろんなサイト様の情報を借用させてもらいました。

ツーリング途中にちょっと寄るのもいいんではないでしょうか!?


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海山城展望公園-愛媛県今治市

愛媛県今治市にある、海山城展望公園に行った時のをまとめてみました。
(2016年6月中旬に行った時のです)



県道38号線から入ると狭い急な道を登っていくと公園はあります。





「海山(遠見山)砦
 【うみやま(おみやま)】

遠見山(現在は海山という)とは、遠見晩所(見張所)に由来する地名であるが、ここは大宝律命時代(8世紀頃)から番所が置かれ、宮崎の火山であげた狼火は、金山、海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。
 中世初頭には、現在の養老地区の「別台」に「館」を構えた在地勢力があり、海山を「詰ノ城」として活用していたが、室町時代に来島村上氏が勢力を増し、その勢力下に吸収された。
 守りの拠点であった海山の砦も「来島城」や「波方館」防衛のための水軍城砦郡の一つとなったが、来島氏も海山を重視し、ここに遠見番所を置いた、しかし、関ヶ原合戦後、来島氏か豊後の森(大分県玖珠町)に転封後は、砦も壊され、陶磁の遺構の面影は失われ、犬走りの一部が、わずかに散見されるのみである。
 この城塞型の展望台は、構造、規模は異なるが、当時の面影を偲んで建築したものである。」

と、建物の標識に記載がありました。



 展望台からしまなみ街道も望めます。


 燧灘(ひうちなだ)を始め来島海峡を一望できる海山の頂上にあり、戦国時代、海峡付近を行き交う船の遠見番所が置かれていたことから、別名「遠見山」とも呼ばれている。ここから来島村上海賊の一員になりきり、船を眺めてみるのも面白いかもですね



 隣接するかがり灯の丘には、空中回廊や大型すべり台もあり、山頂までのウォーキングも楽しめ、景色を楽しむだけでなく、自然と触れ合いながら散策できます。

 春にはソメイヨシノ約1500本が咲き誇り、展望台から360度の大パノラマが素晴らしいとの情報もあります。




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