2019年12月18日水曜日

日本の岬九十箇所巡り(徳島県 刈又埼-刈又埼灯台)-37/90-

今回訪れたのは、徳島県阿南市にある刈又埼灯台です。


蒲生田岬の対岸に位置する場所で、対外、蒲生田岬に向かうのでこちらはあまり知られてないんではないでしょうか。
釣りをしてる人が多かったので、釣り人には知られたスポットかもしれません。



まずコチラに行くのに、地図で見てお分かりかと思いますが、「椿泊の町並み」という場所を通らなければなりません。







 椿泊は阿波水軍の根拠地であって、椿泊全域が水軍の統師森家の知行地であり、人口の半数が家臣(舎人)だったそうです。

 森志摩守村春は天正年間(1573~92)長宗我部氏に従わず、蜂須賀家政の木津城攻略に功績があり、椿泊を中心に約3,000石の知行地を与えられ、以後阿波水軍の根拠地となった。

 また森家は蜂須賀家政から椿泊以南海部郡内の漁業権を得ていた。

 慶長11年(1606)江戸築城の運使を勤め、慶長19年(1614)の大坂冬の陣には蜂須賀至鎮に従軍している。

 水軍は参勤交代や藩主の子女の輿入れなど藩主の船運の全てを行うなど、森家の役割は大きかった。

 椿泊浦に居住する家臣を譜代と外様に分離し、外様は無禄であったが、譜代家臣には役目をつけ扶持米を与えた。

 椿泊浦の譜代家臣(浦士)は48軒であったが、明治初年には65家となっていた。

 天明6年(1786)の村々浦里男女人改帳では687人であり、文化年間(1804~18)に編纂された「阿波志」によると、椿泊浦の戸数250・人数723で、半数は森氏の舎人(家臣)であった。

 明治9年の戸数450(森氏家臣59)うち伊島96、人数2,365(士族322)うち伊島573。
 職業別戸数は農業2、商業47、漁業391、工業11。

 町並の奥の方に椿泊小学校がある。

 その敷地が森甚五兵衛が造った椿泊城跡で、森甚五兵衛屋敷跡でもあり、江戸時代には陣屋が置かれていたところである。

 今は小学校の敷地の海側は埋め立てられて道路や家になっているが、往時は直接海に面していて、海岸から石垣が聳えていた。

 一旦町並に入ってしまうと、路地のような狭い道(幅2m~2.5m程度)が延々と奥に奥にと続く。






 このような古い歴史ある港町・漁師町の道路はこの程度の幅のところが多いが、多くのところは海岸沿いを埋め立てて道路にしているところが多く、椿泊のように昔からの道を今でもそのまま使用しているのも珍しい。

 でも、後ろは急峻な山、前は深い海ともなれば簡単に道路が造れないのでしょうね。

 それも海岸線に沿って曲がりくねり、およそ今現代の車の往来する道路とは思えません。

 この町並の特徴は窓際に手摺が付けられていることで、この地方の漁師町・港町の特徴の上下に開く戸板が備わっているぶっちょう造り(ミセ造り)があるのだが、この椿泊にはこのぶっちょう造りがないことである。
 
 また、つけられた手摺の多くには凝った彫り物が施されており、手摺だけを見て歩くもの楽しいですよ。
といっても脇見注意です!!
(一部引用しております。)

 さて本題の刈又埼ですが、椿泊の町並みを通り、突き当りまで行くと小学校があり、その先にも続いていますが、行き止まりでバイクも方向転換が大変なのでここで停車させてもらいました。

写真の左手に見えるのが小学校でこの石積みはお城の名残なんだろうか?

右手に防波堤がありますが、防波堤の向こう側にもスペースがあるので、そちらに置いたほうがいいです。

さてさて、ここから平坦な道を歩くこと10分


行き止まりです(^^;)
民家がありそのちょっとの隙間を通り向こう側に行かなくてはなりません。

これは逆から撮りました(犬が苦手なもんで早く過ぎたかったんです(^^;)

さて気を取り直して、出発!
意外と整備された道です。
どんどん突き進みましょう!!





多少は登りますが、5分ほどで灯台まで到着できます。






左右もなかなかの断崖絶壁です(^^;)


はい、刈又埼灯台です!

でもまだ先にいけますよー!!

灯台の裏側?に行くと・・・

こんな風に

 私にはここまでが限界でした(^^;)
先端だけあって、風は強いし立ってるのがやっとです

 写真では、あまり高さが伝わりませんが・・・
2.5m以上はありそうだったので飛び降りるのは無理でした


でも眺めは最高!!
私的には対岸の蒲生田岬よりこっちの方が「さきっちょ」感があって好きです。


動画は何でもない波打ちの風景です



てなことで、日本の岬 37箇所目制覇!
37/90

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